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東京高等裁判所 昭和49年(ツ)58号 判決

理由

上告代理人水田耕一、同石井正春の上告理由第一、第二、第三、第五、第六点について。

所論は、原判決が立退料一二〇万円の支払いと引換に上告人に対し本件建物の明渡しを命じたことは、被上告人が立退料は金三〇万円が限度であるとしている点において弁論主義に反し、かつ借家法一条の二の「正当事由」の解釈適用を誤つた違法があるのみならず、右立退料金一二〇万円を証拠によらず認定した点において理由不備ないし理由そごの違法があるというのである。

しかしながら正当事由を補完するものとされるいわゆる立退料などの金員の支払いを命ずる裁判は、当該建物の明渡をめぐる当事者双方の側における必要性の度合を、解約の意思表示がなされた時点において、あらゆる事情を綜合して判断するにあたり賃貸人側の自己使用の必要性が相当程度認められるが、未だ借家人側のそれに比して劣る場合に、借家人が転居可能の状態にあり、かつ双方の事情から判断して相当と認められる転居に伴う費用その他の不利益補償を賃貸人が提供する用意があると認められるときは、正当事由を補完する事情の一として賃貸人側に正当事由による解約申入の効力を認めるという趣旨のものであるから、右金額の決定は、賃貸借契約成立の時期および内容、その後における建物利用関係、解約申入当時における双方の事情を綜合比較考量して裁判所がその裁量によつて自由に決定しうる性質のものというべく、いわゆる借家権の価格相当額はこれが判断の一資料とはなしえても必ずしも右金額に拘束されるものではないし、また、賃貸人においてこれを支払う意思がある以上、通常人の到底受諾しがたい禁止的巨額を定める等裁量権逸脱のないかぎり、右金額の決定は裁判所が自由にこれをなしうるものと解するのが相当である。

したがつて原判決が、被上告人の提示する金三〇万円の立退料金額を超過する金一二〇万円の支払いを命じたからといつて弁論主義に反し、借家法一条の二の解釈適用を誤つたとか、右金額の決定につき証拠に基づかずに認定した違法があるということはできない。

上告人の右各所論はすべて独自の見解を主張するにすぎず採用し難い。

論旨はいずれも理由がない。

同第四点について。

所論は、原判決は、解約申入れの効力発生時期の認定につき借家法一条の二、三条一項の解釈適用を誤つた違法があるという。

しかし、かりに正当事由を補完するに足る立退料の提供が許される場合には、提供すべき具体的な金額は判決によつて確定されるとしても、解約申入れの時に正当事由が具備していたと解するのに何ら支障は存しない。けだし本件立退料の提供は、明渡の執行の条件として定めたに過ぎないことは原判決の判文上明らかである。

論旨は理由がない。

同第七点について。

被上告人から上告人に対し昭和四七年五月一八日送達の準備書面により本件建物賃貸借契約の解約申入れの意思表示がなされた当時において被上告人側に存した事情に関し、原判決の認定説示するところは次のとおりである。

(1)  被上告人居宅は床面積七五・六〇平方メートルの平家建で六畳三室、四畳半一室のほか台所、浴室、玄関、書斎があるが、そこに被上告人夫婦、三男夫婦および四男夫婦がそれぞれ六畳各一室を、五男が四畳半一室を寝室として使用して生活している状況であつて、非常に手狭である。

(2)  被上告人は右居宅のほか、その敷地とこれに接続する土地約一、〇〇〇メートルを所有し、その北東部分約二〇〇平方メートルを、南東部分約一三〇平方メートルを建物敷地として、南西部分約一六〇平方メートルを駐車場として、それぞれ他に賃貸しており、さらに本件建物およびその敷地約一三〇平方メートルと隣接土地約一三〇平方メートル(空地)、本件建物の敷地の東側に隣接する約一三〇平方メートルの土地および地上の建物をそれぞれ所有していずれも他に賃貸するなど、かなりの資産を有している。

しかし、反面負債も多く(現に、被上告人居宅は昭和二九年一二月二八日元本三四五万円の債権担保のため抵当権設定登記が経由されているし、また債務の弁済にあてるため本件建物の敷地の北東に隣接する土地を他に処分した事実もある)、すでに老令(昭和四七年当時七二才)に達し、賃料収入、年金等によつて生計を立てている。三男、四男も失職中であるし、五男は昭和四六年に大学を卒業したばかりで、いずれも被上告人の生活を扶助するだけの能力はない。このような状況にあるため被上告人としても、住居を新築する等の方法で住宅難を解決することは期待できないというのである。

これに対し上告人側に存する事情として、

(1)  日高よし(上告人は同人の相続人である)は昭和一九年四月に本件建物を賃借するに際し、一五〇円という当時としては高額な敷金を差し入れ、その後同人および上告人は、戦中戦後の時代を経過し、長期にわたつて本件建物の維持保全に努めてきた。

(2)  上告人の夫・彬は横浜市立大学文理学部、教授として勤務する傍ら、共立薬科大学講師を兼ねているが、職業柄週二、三回都内で行なわれるグループ研究に参加しなければならず、そのため夜遅く帰宅することが多いし、かつ長男(昭和四七年当時一五歳)、二男(同一四歳)が近くの学校に通学していることもあつて、現在の住居の附近に生活の本拠を置くことが望ましい。

(3)  上告人は主婦であつて収入がなく、夫・彬の収入も昭和四七年九月当時月給約一六万円(手取り平均)、講師としての月収約一万円その他若干の講演料で一家の生計を維持している。他にこれといつた財産もない上告人としては、もし本件建物を明け渡すとなると、現状ではこれに代る適当な住宅を入手することが困難であるばかりでなく、かつその移転先によつては夫・彬の研究活動に著しい不便を招き、また子供の教育上も好ましくない環境になることが懸念される事情にあるというのである。

おもうに借家法一条の二にいう「正当の事由」とは賃貸借当事者双方の利害関係その他諸般の事情を総合考慮し、社会通念に照らし妥当と認むべき事由をいうのであるから、賃貸人および賃借人双方の利害得失を比較考量して決すべきである。

本件の場合、前記原判決認定の事実を約言すれば、上告人は家族四人暮しで、給与所得者の妻として中流程度の生活を営むものにすぎないのに反し、被上告人は都内としては相当広大な土地、建物を有するものでありながら成人に達した子供らと同居している現状では住家が手狭であり、空地に新築するには資金がないということに帰着するわけであるから、右当事者双方の事情を比較考慮する限りにおいては、上告人の本件建物の需要度は被上告人のそれを優に超えるものがあるというべく、上告人において立退料の金額いかんによつては本件建物を明渡してもよいとの態度を示すか立退料として原判決認定額より相当大幅に上回る金額を被上告人において提供する用意があるとかの特段の事情が存しない以上、到底被上告人の本件賃貸借契約解約申入れに正当の事由があると認めることはできないものというべきである。

しかるに原判決は前記認定事実に基き上告人が本件建物の明渡を拒む根本的な理由は、夫・彬の職務上の便宜としての地理的条件と転居資金の制約にあると断じたうえ、被上告人が本件建物を自ら使用する必要性も大きいことに鑑みて、立退料一二〇万円を支払えば本件解約申入の正当事由が補完されるとしているが、原判決のかかる判断は借家法一条の二の規定の解釈を誤り、ひいては審理不尽、理由不備の違法におちいつたものというべきであるから、前記特段の事由の存否につきさらに審理を尽さしめる必要があり、論旨は理由がある。

よつて原判決は破棄

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